あの会社も? 「M資金」絡みの事件の数々

「M資金」が絡む事件のなかで、大仕掛けのものは昭和乎43年に発生し、以後次々と日本の一流企業を襲うことになる。以下、話題となった事件とその概略を調べてみた。

■東急電鉄2兆円融資事件(7/11)

昭和50年に表面化した東急電鉄2兆円融資事件の陰にも、「M資金」が関係していると言われている。この事件の主役は、グループ総師五島昇社長の側近だった酒井幸一常務。

当時、西オーストラリアで大規模な宅地開発を計画していた五島は、その資金調達を腹心の酒井に命じた。酒井はホテル・ニューオータニの一室を借り切り、工作に奔放する。

こうした酒井の動きは、すぐにブローカーの間を駆け巡り、怪しげな人物たちもホテルを訪れるようになっていった。

そのなかで、酒井はいくつかの融資話に対して、酒井の名で融資依頼書や念書を振り出してしまった。それらはコピーされ総会屋などに流れてしまう。

総会屋たちは東急本社に押しかけていき、大騒ぎとなったのだが、そうした酒井自筆の融資依頼書のコピーの一通が、「M資金」を基とする融資話だった。

東急側は、この事件はすべて酒井個人の独断専行にあるとして、彼をグループから追放することによって鎮静化を図った。本当に酒井の独断だったのかを、世間にハッキリと証明することができないまま・・・。

 

■田宮二郎猟銃自殺事件

 

もう過去の人となった勝新太郎、彼とコンビを組んだ映画『悪名』シリーズや、テレビの『白い巨塔』などの艶っぽい演技で人気を呼んだ田宮二郎という俳優を覚えているだろうか。

最近では、彼の息子も芸能界入りし、朝のワイドショーなどレポーターを務めているので、そちらの方が馴染みがあるという人もいるかもしれない。


田宮二郎は昭和53年、猟銃で自らの頭を打ち抜き、衝撃の自殺を遂げた。いろいろ伝えられた理由の一つに「M資金」がある。


いわく、田宮はある団体役員から、「M資金」による2000億円の融資話を持ちかけられ色気を示した。手数料として1000万円が必要だと言われた田宮は何の疑問もなく払ってしまい、後に詐欺だったことに気づく。

これを苦に自殺したと言うのだが、これも噂の領域を出るものではない。


■全日空3000億円融資事件 (7/10)

「M資金」が航空会社社長の失脚につながり、ひいては日本の歴史に残るロッキード事件へと発展する遠因となっていったのが、昭和44年の全日空3000億円融資事件だ。

これは、当時全日空の社長だった大庭哲夫が、複数の融資話に色気を見せ、社判と自分の署名入りの融資申込書や念書を何通も振り出してしまった事件である。そのなかでも最大級の融資話は、「M資金」から都合されるという3000億円の融資話だ。

話を大庭に持ち込んだのは元自民党代議士鈴木明良という人物だった。内閣委員長を務めた経験の持ち主であり、「大蔵省特殊資金運用委員会委員」と刷り込まれた名刺をその時大庭に差し出している。

そのうえ自民党の現職代議士、大石武一、原田憲代議士の紹介状も携えていたため、大庭はこの人物が持ち込んだ話をすっかり信用してしまった。
話は次のようなものだった。

マッカーサーがアメリカに帰国する際、占領政策がスムーズに進行したのは吉田茂の貢献が大きいと言うことで、彼に巨額の資金を秘密裏に贈与した。その資金とはもちろん「M資金」のことだ。

吉田茂はそれを受け取り、意向の政治運営資金として利用してきたが、吉田の死後、「M資金」は日銀に移され眠っている状態になっている。そこで、吉田の側近だった人間たちが、しかるべき優秀な企業に融資し、
活用したいと考えていた。「大蔵省特殊資金運用委員会」もその趣旨に賛同し、優良企業を物色していたところ、貴社はどうかということになったというものだ。

融資額は3000億円、返済期限は30年の年利4.5%という破格の内容だ。

ちなみに、名刺に刷られた大蔵省の運用委員会の存在を知っているのは、首相や蔵相、日銀総裁など数人だけ。事は秘密に運ばなければならないので、他言は無用と言う条件が加えられた。

当時、全日空の社内では、ダグラス社のエアバス導入を目論む大庭派と、ロッキード社の渡来スター導入の副社長若狭得治派の間で、激しい、つば競り合いが繰り広げられていた。資金面で少しでも優位に立ちたい大庭は、この3000億円の融資話に食指が動いてしまったのだ。

後にこの話を聞いた同社顧問の長谷村賢が怪しみ、この融資話をご破算にすると同時に、失態の責任が大庭に及ばないよう念書などを回収しようと動き回ることになる。しかし、念書はすでにコピーされており、一部は右翼の大物児玉誉士夫の手に渡ってしまっていた。

児玉はこれを武器に、昭和45年5月、全日空の株主総会で大庭を失脚させることに成功。若狭が社長に昇進し、トライスター導入が決定していく。

この過程のなかで児玉や田中角栄などに、巨額の見返りが渡されたことがやがて暴かれ、日本社会を揺るがすロッキード事件へとつながっていった。

■富士製鉄5000億円融資事件(7/9)

 

昭和43年というから、いまから34年ほど前の事件だ。金融ブローカー山本徹こと山崎勇を中心とするグループが、とある一流企業の社員に対し、「八幡製鉄と合併し新日鉄になる直前の富士製鉄に、ユダヤ財閥の資金5000億円を日本興業銀行を通じて特別融資できるよう斡旋した。リベートとして120億円が手に入る。倍にして返すから金を貸してほしい」と2200万円を騙し取ったというのが事件の概要だ。

しかも、山崎は富士製鉄の藤木竹雄専務の署名・印鑑入りの融資依頼書と念書などを偽造した罪にも問われていた。偽造されたという融資依頼書の内容は次のようなものだった。

融資金額は50000億円とともに期間と金利が書かれ、取扱銀行は日本興業銀行、依頼者は富士製鉄社長の永野重雄といえば、後に経団連の会長職も務めるなど、文字通り日本の経済界のリーダー的役割を担った大物経済人だ。

また、念書には山崎に対して融資額の2.5%を支払うことを約束した内容の一通もあった。5000億円の2.5%というと125億円にもなるというから、一般の人々にとっては天文学的なリベート額である。

富士製鉄側はこの融資依頼書や念書は偽造されたものとして取り合わず、事件は文書を偽造した詐欺罪として落着した。その証拠に念書には電話番号など2ヶ所の間違いがあり、そんな単純なミスを犯した文書はまがいものだというのが彼らの論拠だった。しかし、この事件は山崎が5000億円融資の話をでっち上げた詐欺事件として片付けるのには、疑問も残る事件だ。

疑問のひとつは、山崎が藤木専務の念書をたてに何度もリベートの支払いを迫っていること。2200万円の詐欺には成功しているのにもかかわらず、山崎の富士製鉄へのリベート支払い要求は執拗なものだった。

藤木専務の自宅を訪問するだけでなく、永野社長への面談も求めている。しかも、そのときのやりとりや相手の様子まで、彼は事細かく記録に残していた。はたして、騙すだけでそこまで小細工する必要があったのだろうか。

次に疑問なのは、藤木専務をはじめとする富士製鉄側は、執拗に繰り返される山崎からのリベート要求に対し、法的な対抗措置をなかなか取らなかったことだ。実際、山崎が指名手配されたのは、事件発生後2年経った昭和45年9月のことだ。

真相はいまだ藪の中だが、山崎の斡旋話は実は真実であり、永野社長がブローカーの介在を喜ばないことから、融資話は山崎を外した形で進められたのではないかという説を主張する人物も根強くいる。

 

 

つづく

戻る